聖ヨハネ騎士団の島 マルタ
ヴァレッタ、スリー・シティーズ、ラバト、イムディナ
2000年5月
オスマン・トルコ軍のマルタからの撤退
1565年9月7日、約 1 万の兵力を持つシシリア副王の援軍が、マルタ東北部のメッリーハ湾に上陸。しかし、それでもオスマン・トルコ軍がキリスト教徒軍の倍近い兵力を持っていた。
騎士団長ラ・ヴァレッテは騎士たちに策を与えた。騎士団長の指示に従い、騎士たちは「更に 1 万 6 千の援軍が上陸中だ。」という情報を流す。それもイスラム教徒の奴隷の聞こえるところで ... 。
その上で奴隷を脱走させる。その情報は間もなくオスマン・トルコ軍の司令部に伝わるわけだ。
9月8日、長引く攻囲に加えてキリスト教徒の援軍の到着によって戦意が低下し、物資も消耗しつつあったオスマン・トルコ軍は撤退を開始した。
同日、騎士団から送り出された偵察の騎士は、無人となった
聖エルモ城砦
跡地にやってきた。トルコ艦隊からは、再び聖エルモ城砦に聖ヨハネ騎士団の八角十字の旗がはためくのが見えた。ビルグの聖ローレンス教会では鐘が鳴り響いていた。
撤退のために艦隊に乗船を始めていたムスタファ・パシャの下に、上陸したスペイン副王の援軍の兵力はせいぜい 1 万に過ぎないとの情報が届いた。つまり、オスマン・トルコ軍が兵力においては優勢を保っている。彼は再び兵の一部を上陸させた。
敵を求めて進むトルコ軍に対して、キリスト教徒側の指揮官アスカニオ・デ・ラ・コルナは慎重な行動をとろうと努めた。
しかし、戦いに逸る将兵を止めることは出来ない。デ・ラ・コルナはキリスト教徒軍の兵士たちに突撃を命じざるを得なくなった。
それを見ていたイムディナのキリスト教徒将兵達も、命令を待たずして突撃を開始した。
結果的に、シシリアからの援軍はオスマン・トルコ軍と正面からぶつかり、イムディナを出撃したキリスト教徒部隊はオスマン・トルコ軍の側面を衝く格好になった。この日のキリスト教徒軍の指揮をとったのは神だと言われた。
オスマン・トルコ軍は崩れた。その撤退を支えたのは、ムスタファ・パシャの周囲を固めたイェニチェリの部隊だった。
ムスタファ・パシャとイェニチェリは、艦隊の待つセント・ポール湾に向かうトルコ軍の後衛を務め、ときに追撃軍を迎撃し、トルコ軍の損害を最小限にとどめた。追撃戦は水際まで続いた。
敗戦の報を受けたオスマン・トルコのスレイマン大帝は、人目につかぬように夜間に帰還することを部隊に命じただけだった。
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