四人の博士に支えられた 聖ペテロの司教座(カテドラ・ペトリ)
そして、下の画像にあるのがベルニーニによって手がけられた聖ペテロの司教座(カテドラ・ペトリ)。中央に取り込まれた中世の椅子は、四人の博士たちによって支えられている。その四人とは、神学の基礎を築いた聖アンブロシウス(手前左)、聖アウグスティヌス(手前右)、聖アタナシウス(奥左)、聖クリソストムス(奥右)なんだそうな。
ローマ教皇アレクサンデル7世とベルニーニ
やがてバロック芸術の巨匠となるベルニーニにブロンズのバルダッキーノ(天蓋)を制作させ、更にはベルニーニを大きく育て上げたローマ教皇ウルバヌス8世が亡くなったのが西暦1644年のこと。
その後継者として教皇に即位したインノケンティウス10世は、芸術に熱心ではなかったこともあり、教皇庁を中心としてローマの美術界の寵児となっていたベルニーニにも、不遇の時代がやってきた。
そんなベルニーニを再びローマを中心とするバロック芸術の柱として復活させたのが、インノケンティウス10世の後継者となったローマ教皇アレクサンデル7世だった。
右の画像は、ベルニーニが制作した教皇アレクサンデル7世の墓。西暦1671年に制作を始め、完成したのは西暦1678年とされている。もちろん、サン・ピエトロ大聖堂の中で見ることが出来るよ。
この教皇アレクサンデル7世なんだけど、即位の翌年にあたる西暦1656年にはベルニーニにサン・ピエトロ広場の設計を依頼し、また上の画像にあるカテドラ・ペトリ(聖ペテロの司教座)の制作をも命じているんだ。
ローマのバロックの衰退とベルニーニの死
ウルバヌス8世と並んで芸術家としてのベルニーニを育て上げたとも言える教皇アレクサンデル7世は、西暦1667年に亡くなった。その後継者クレメンス9世は、ベルニーニとは旧知の仲だったこともあり、彼にサン・タンジェロ橋の装飾を依頼している。
西暦1670年、教皇クレメンス10世が即位。教皇庁の財政悪化を食い止めるために、クレメンス10世は芸術関係の支出を削減した。そして西暦1676年に即位した教皇インノケンティウス11世は、更に厳しい緊縮財政を命じ、ベルニーニが計画していたサン・ピエトロ広場の第三の柱廊の建設を中止させたんだ。
教皇庁が緊縮財政を厳しく実施するにつれ、バロック芸術の中心だったローマの活力は衰退し、やがてはフランスの首都パリがバロックの中心となっていった。
そんなローマにおいて、ベルニーニが亡くなったのが西暦1680年11月28日のこと。死の直前、多くの芸術作品を作り上げた彼の右手は麻痺してしまったらしい。そんな右手についてベルニーニは、「長い間働いてきたこの腕が、私よりも先に休むのは当然のことだよ」と語ったんだそうな。
その後、バロック芸術の時代は去り、新古典主義の時代がやって来た。かつてはローマ教皇庁の寵児だったベルニーニの作品は酷評され、「趣味の疫病」とまで言われたんだそうな。そんなベルニーニの作品が再び評価されたのは、20世紀になってからのことだった。
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